(写真は筆者 大極殿 内部 2010 4 18 午後撮影)
唐の都唐「長安」を模倣してつくられたといわれる。一説には北魏洛陽城等を模倣して建造されたとも。
昭和40年ごろから始まったという平城宮遺跡の発掘。筆者もその直後田圃を掘り起こしたいる作業を見たことがある。
遠大な計画だなという感慨を持った。
ところが大阪に住んでいた筆者は写真関係の仕事に従事して
奈良に住むようになった。昭和50年ごろだった。
その当時掘り起こしは相当進んでいて、木々が植えられつつあった。
平城宮の北部の一部が平城旧跡として整備されて行った。
大和郡山市に至る10条付近まで考えると今の平城旧跡と比べて
十数倍の規模だった”実際”の平城京。
京都の(端から端を)条の構成をイメージすれば
その壮大さはほぼ理解できるだろう。
近鉄平城駅北には伝説の皇后”三韓征伐”を成功させた?という神功皇后陵がある。
今の平城旧跡の北部に位置する。
八幡神社に守られた神功皇后陵は壮大である。
平城旧跡のすぐ北に位置する成務天皇量と比べてもはるかに大規模だ。
奈良とは”ならした平らなところ”だとか、
奈良城(ナラキ)とう城郭都市を意味するとか、
奈良は韓国語のナラ(国)を意味するとか諸説ある。
筆者は中国の南京のような城郭都市説も聞いたことがある。
奈良県は中国・韓国との友好・交流の拠点だったことは
誰もが認めるところだろう。
沖縄の米軍基地が取り沙汰されているが、
平城旧跡のすぐ北東には広い自衛隊の基地がある。
このことも忘れてはならないだろう。
ジャーナリストネット併載