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2011年3月6日日曜日

"日本・ユダヤ封印の古代史" 天皇家も琉球弧列島にも

 天皇家も琉球弧列島にも

以下の内容の本は西欧と日本の謎を解くのに必読と思う

"日本・ユダヤ封印の古代史" ⇒http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/tokehon.htm

 以下引用提示(転載)

聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史――失われた10部族の謎
面白い、じつに面白い、それが読みながら感じたことだった。このたび徳間書店より、「日本・ユダヤ封印の古代史」(ラビ・マーヴィン・トケイヤー著 久保有政訳 ハードカバー 定価1800円+税)が発売された。
 ラビ・トケイヤーは、二〇年以上前に「ユダヤと日本・謎の古代史」という本を出版しているが、この新刊は、それをはるかに上回る豊かな内容を持っている。
 ラビ・トケイヤーは、「ユダヤと日本・謎の古代史」の出版後も日本とユダヤの古代史における関わりについて熱心な研究を続けてきた。この新刊は、その集大成ともいえる。
 以下、その内容を一部紹介したいと思う。なお、この本の購入はお近くの書店、またはレムナント出版の注文窓口でも取り扱っている。


イスラエルの失われた部族

 かつてソロモンの時代に統一王国だったイスラエル王国は、ソロモンの死後、南北に分裂。北王国イスラエルと南王国ユダになった。
 北王国イスラエルには、イスラエルの十二部族のうち十部族が属し、南王国ユダには残りの部族が属した。
 紀元前七二二年、北王国は東の強国アッシリヤ帝国に占領され、民は捕囚となってアッシリヤへ連れ去られる。
 その後、北王国イスラエルの十部族の人々の行方は、歴史的にはっきりわからないものとなっていた。彼らが、いわゆる「イスラエルの失われた十部族」である。
 しかし、紀元七〇年のエルサレム滅亡後、世界に離散していったユダヤ人たちは、世界の各地で、イスラエルの失われた十部族の人々に出会うようになった。あるいは、「ここに十部族が来ていた」 
という証拠をつかむようになった。
 いまや、イスラエル十部族がここに来ていた、という報告は世界中の多くの所から届いている。とくにそれはシルクロード付近に集中している。


アフガニスタンに来たイスラエル十部族

 ラビ・トケイヤーは、まずアフガニスタンに今も、イスラエルの失われた十部族の子孫が住んでいることを指摘する。
 
カシミールに来たイスラエル十部族

 また、カシミールにも、イスラエルの失われた十部族の子孫が多く住んでいる。カシミールは、インドの北部の地である。
 カシミールには、かつてイスラエル十部族の地にあったと同じ町の名前があちこちについている。これは人名についても言える。

インドとミャンマーに来たイスラエル十部族

 インドとミャンマー(旧ビルマ)にも、イスラエルの失われた十部族の子孫が今も住んでいる。
 ここに、「メナシェ族」(シンルン族)と呼ばれる人々が住んでいる。

中国に来たイスラエル十部族

 また、イスラエルの失われた十部族は、中国にも来ている。
 中国にチアン族(チアン・ミン族)と呼ばれる人々がいる。
 彼らには、自分たちが西方のかなたからやって来たという伝説がある。
 彼らは、かつて自分たちが話していた言語を失ってしまった。また、かつて自分たちが持っていた羊皮紙に記された聖なる本も失ってしまった。
 しかし、彼らは古来、唯一神教を信じてきた。彼らの神観念は聖書の神と同じである。
 彼らの言い伝えによれば、自分たちはアブラハムの子孫であり、また自分たちの先祖には十二人の息子がいた。これはヤコブのことである。
 
イスラエルの失われた十部族は日本に来たか

 ラビ・トケイヤーは、そのほかにも非常に多くの事柄をあげて、イスラエルの失われた十部族の人々がとくにシルクロード付近に足跡を残していることを例証している。
 ではシルクロードの終点はどこか。日本である。
 イスラエルの失われた十部族は中国までやって来ていた。彼らの一部はアフガニスタンや、カシミール、インド、ミャンマー、中国などに、住み着いた。
 しかし、それで終わりだろうか。その他の人々、あるいは本隊の人々はさらに東に向かい、日本にまで到達したということは考えられるだろうか。


死者の汚れの観念

 日本では、お葬式に参加すると、参列者に「お清め塩」が配られる。参列者は、自分の家に帰ったとき、玄関前でそのお清め塩を頭に振りかけてもらわなければならない(塩祓い)。そうやって身を清めてからでないと、家に入れてもらえないからである。
 古代イスラエルでも、葬式に参加した人や、死体に触れた人は、決められた方法で禊ぎをしなければならなかった。
「身の清い人が……ヒソプを取ってこの水に浸し、それを……死人や墓に触れた者の上に振りかける」(民数記一九・一八)
 こうやってイスラエルでも、死体にふれた者は禊ぎをして身を清めなければならなかった。今日も、ユダヤ人墓地の入り口には必ず水の備えがある。ユダヤ人の家の玄関の近くにもある。それは、墓やお葬式に行ってから帰ってきたとき、そこで禊ぎをするためである。
 日本神道の神話においても、イザナギは、妻のイザナミを「黄泉」の国(死者の世界)から連れ返そうとそこに行き、帰ってきたとき、死者の汚れを祓うために川で水浴して禊ぎをしたと記されている。
 ちなみにこの「黄泉」という神道の死者の世界も、旧約聖書でいう「シェオル」(日本語で「よみ」と訳されている一般的死者の世界)によく似ている。
 日本神道の重要な特徴は、死者の汚れ(穢れ、忌み)の観念を持っていることである。死人を出した家や、葬式に参加した人などは、「汚れに触れた」と言われる。欧米人には、このような「汚れ」の観念はない。
 この「汚れ」は物質的な汚れではなく、宗教的、儀式的な汚れである。こうした日本神道の死者の汚れの考え方は、古代イスラエルにあったものと同じである。
「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間汚れる」(民数記一九・一一)
 と旧約聖書に記されている。日本神道でも同様に、家族に死人が出たときや、親族に死人が出たとき、一定期間「汚れている」とみなされている。
 この期間には、人は神社に参拝することもできない。古代イスラエルでも、汚れの期間にある人は神殿に来ることを許されなかった。
 仏教の葬儀は寺の中で行なわれるが、神道式の葬儀は、必ず神社以外の場所で行なわれる。それは汚れを神社内に持ち込まないためである。また葬儀に参加した神主は、葬儀に用いたものを境内に持ち込まない。たとえ持ち込む場合でも、必ず禊ぎをして清めてから持ち込む。
 また自分自身をも清めなければならない。古代イスラエルにおいても、神殿では決して葬儀は行なわれなかった。
 聖書にはまた、古代イスラエル人はモーセとアロンの死の際に、「三〇日間」泣き悲しみ、喪に服したと記されている(申命記三四・八、民数記二〇・二九)。一方、一〇世紀に日本でつくられた『延喜式』によると、汚れにふれて神事にたずさわってはいけない忌みの日数を、人の死ならば「三〇日」と定めている。
 また三ヶ月以内の胎児の流産や、手足の一部を欠いた者の死体の汚れは「七日」の忌みとされている。このように死体の汚れに関する日本神道の考えと、古代イスラエルの風習はたいへんよく似ているのである。


女性の月経や出産に関する観念

 死体の汚れだけではない。日本には女性の月経や、妊娠中、また産後に関する汚れ(忌み)の観念が古代からある。
 古来、日本では月経(生理)中の女性は神事に参加してはならなかった。夫との性交渉もさけられ、彼女は部落内に設けられた共同の別小屋(月経小屋)に、月経中およびその後の数日あるいは七日程度にわたって、こもらなければならなかった。この風習は明治頃まで広く日本中に見られたものである。

 またラビ・トケイヤーは、日本に割礼の風習が見られるか否かについて、次のように述べている。

お七夜

 日本にもしイスラエル人がやって来たのであれば、日本には割礼の風習があるであろうか。
 私は、日本の皇室で割礼が行なわれているという噂を聞いたことはあるが、一般には、日本に割礼の風習があったか否かを確かめることができていない。
 今日の一般の日本人の間には割礼の風習はない。しかし、日本には古来「お七夜」といって、生まれてきた子どもを親戚や知人に披露し子どもの名前を紹介する時を、生後七日目の夜に行なう風習がある。
 生後七日目の夜というのは、ユダヤ式の数え方でいうと、生後八日目にあたる。ユダヤでは日没から日没までが一日で、日没が来ると次の日になるから、七日目の夜は八日目なのである。
 この風習は、『生後八日目の割礼』というイスラエル人の風習の名残?

仮庵の祭と中秋の名月

 日本には、旧暦の八月一五日に、「一五夜」という風習がある。
 これは新暦では九月中旬~一〇月上旬頃である。日本で「十五夜」の日は、ユダヤ暦ではちょうど第七月(ティシュレイ)の一五日であり、仮庵の祭の日にあたる。つまり日本で「十五夜」を行なっているとき、ユダヤでは仮庵の祭を行なっているのである。
 「十五夜」のとき、日本人は伝統的にしばしば仮庵を建て、そこに家族や親戚が集まった。ススキを花瓶にさし、団子や里芋や梨など、その時期の成り物を供えて、「中秋の名月」をながめて、お月見をする。
 
収穫を供えることと仮庵の祭

 日本にはまた、古来、収穫の初穂を神に捧げる優美な風習がある。日本人は「おはつほ」と言って、穀物や果物、そのほか製作した作品の初めて取得した一部を、初穂としてまず第一に神に捧げる。
 毎年一〇月(旧暦時代は九月)に伊勢神宮を中心に行なわれる「神嘗祭」は、収穫の初穂を神に捧げる祭である。初穂を神に捧げる風習は、古代イスラエル人も同様に持っていた。
 「あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない」(出エジプト記三四・二六)
 
 日本にはまた、ユダヤの過越の祭が見られるだろうか。ラビ・トケイヤーは次のように述べる。


琉球の「看過」とユダヤの「過越」

 ユダヤ人には、古くから「過越の祭」と呼ばれる風習がある。これは聖書の「出エジプト記」に起源を持つもので、今から三千年以上前にエジプトで奴隷だったイスラエル民族が、モーセの指揮のもとエジプトから大脱出した出来事を覚えるものである。
 イスラエル民族がエジプトを脱出する前夜、「過越」と呼ばれる出来事があった。これは、すべての家庭の長男が死ぬという災禍がエジプトの国に下ったとき、ただイスラエル人の家庭だけはその災いが「過ぎ越した」というものである。
 イスラエル人は、その災いが来る前に、神の命令によって小羊をほふり(殺し)、その血を家の門口に塗っていた。彼らは血をヒソプという植物の束に浸し、家の門口に塗った(出エジプト記一二・二二)。その血の塗ってある家庭は、さばきの天使がそこを過ぎ越したのである。イスラエル人は、ほふったその小羊をその夜、焼いて食した。
 これによく似た風習が、日本の琉球地方(南西諸島)に今も伝わっている。
 中田重治は、琉球地方には「看過」と呼ばれる、牛をほふってその血を家の門口に塗る厄祓いの風習があると述べていた。このとき羊ではなく牛が用いられたのは、日本には羊がいなかったからであると、中田は考えていた。
 私は、日本人の友人の助けを借りて、この「看過」の風習について沖縄の教育委員会や町史編集委員会に問い合わせしてみた。すると事実、古くから「看過」あるいは「シマクサラシ」(厄祓いの意)と呼ばれる風習があるという。
 これは災厄を家や村に入れないために、牛をほふり、その血をススキの穂や、桑の葉等の植物に浸して、家の門口や四隅、村の入り口等に塗るというものである。その牛は、その日、焼いて皆で食された。
 これはまさに、ユダヤの過越の風習を思い起こさせる。ちなみに「看過」という日本語は、見過ごす、見のがすの意味で、過越と同じ意味である。
「看過」の風習は今日も行なわれている。ただし今日は、牛ではなく、豚を使用している町が多い。「どうして豚を?」と聞くと、昔、牛を殺すことを禁じる禁止令が出たので、豚に変えたという。
 また看過の風習は、おもに旧暦の二月初旬、および八月初旬などに行なわれている(年二~三回)。旧暦の二月というのは春であり、新暦では三~四月頃にあたって、ユダヤの過越の祭と大体同時期であることも興味深いことである。
 聖書によれば過越の小羊は、ユダヤ暦ニサン(アビブともいう)の月の一四日にほふられた。これは太陽暦では、三~四月頃に相当するのである[看過すなわちシマクサラシの風習については、『沖縄大百科事典』(沖縄タイムズ社刊)にも解説がある]。


 以上は、ラビ・マーヴィン・トケイヤー著「日本・ユダヤ封印の古代史」(徳間書店刊)より、ごく一部を紹介したものである。本には写真等も多くある。ぜひ購入して、続きをお読みいただきたい(お近くの書店、またはレムナント出版の注文窓口で扱っている)。http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/katarogu.htm#huuin