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2015年12月11日金曜日

アーカイブ 再録⇒『「釜ヶ崎」、暴動前後:土門拳と井上青龍( 1 )』

アーカイブ 再録

『「釜ヶ崎」、暴動前後:土門拳と井上青龍( 1 )』

2008-06-27 07:01:18 | アート・写真
「釜ヶ崎」の暴動のその日、大阪市北区で世界財務相サミットが行われていた夜で大阪府警が警備を北区などに集中していたそのときであったのは偶然の符合だろうか?
 暴動がつづいた後、気になっていた。先週金曜日たまたま午後9時ごろ浪速区から西成区へと26号線を南に下っていると、萩の茶屋に差し掛かるところに警察の装甲車を一台認めた。はっとしたが13日の“あいりん地区”の騒動を思い出して、20日になってもまだ警戒が続いているのだろうと思った。その2日ほど前、釜ヶ崎地域合同労働組合の委員長も逮捕されたという。
 
筆者と「釜ヶ崎」との付きあいは結構長い。筆者の出身の高校が、浪速区にあったのだ。
  当時筆者は夜間高校で学んでいた。夜間高校のクラブ活動の仲間とよく集まる“アジト”が天下茶屋にあった。授業の後、数人(夜間高校の社研のものたちが中心)が集まり深夜まで文学や映画、社会のことを熱く語りあった。青春の数駒であった。
時には夕方、学校へ行く前に天下茶屋のアジトに立ち寄ることもあった。一昔前の終戦直後の闇市を髣髴とさせる萩の茶屋を通って、学校へ通うケースも少なくなかった。
 ある真夏のことだが、下着姿の女性が床机に座り、うちわで扇いで暑さをしのいでいる。手軽な屋台で飲んだと思われる酔っ払いがふらふらとうろついているという具合で筆者にとって一昔前を思い出させる、親しみやすい地域であった。
  しかし夜間高校で学ぶ筆者には屋台でうどん一杯を楽しむ余裕はなかった。素通りであった。市岡高校、北野高校や天王寺高校らの学生定時制課程のクラブ、社研連合を組織してよりおきな運動へ盛り上げようと言う機運があった時代であった。
 19618月初旬に第一次「釜ヶ崎」暴動が起こった。誰もが認めるように「釜ヶ崎」は一見して貧困の蓄積の象徴的なところである。この最初の大暴動で全国の注目するところところとなった。写真家の土門拳も広島や三池の取材のあと東京への帰りに「釜ヶ崎」に立ち寄ったそうである。
  
 しかし筆者はうかつにもその親しみやすい地域を「釜ヶ崎」だとは知らずに通っていたのである。あそこが有名な「釜ヶ崎」だったのか!筆者が学校へ行くために歩いた「釜ヶ崎」。
 その「釜ヶ崎」を同時期に歩き回って写真をこつこつと撮っていたのが当時は写真家の卵だった井上青龍である。
  井上青龍と筆者はずいぶんあと(彼の晩年)で親しくなる。当時はおそらくすれ違っていたに違いない。井上青龍は新婚生活も大国町で開始、そこは筆者の学んだ夜間高校のすぐそばである。
 筆者や同窓の夜間高校生にとっては「釜ヶ崎」は、ほぼ地元であった。鶴見橋、芦原橋、釜ヶ崎、花園町、新世界、じゃんじゃん横丁、動物園前、飛田新地、難波。その辺は夜間高校生にとってはよくおとづれるローケーションであり、遊ぶ場所であった。
 (敬称略ご容赦下さい)
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