筆者にとってはじめての”原爆体験”は第五福竜丸のビキニ環礁での被曝だったと云えるだろう。
それは筆者がまだ10代の後半に入ったばかりのころだった。
第五福竜丸の被曝を新聞やラジオ、雑誌で見て、爆発に伴う放射能被害の恐ろしさに驚かされた。
日本はヒロシマ、ナガサキ、静岡県焼津市の第五福竜丸と三回の核実験被害に遭ったことになる。
日本は唯一の被爆国として核兵器廃絶へ強く訴えつづける使命と責務があるといわれる所以である。
当時盛り上がっていた運動、東京の杉並の主婦たちがはじめたという原水爆禁止を求めるものであった。
大阪でも原水爆禁止世界大会が北区の扇町公園のプールで開かれた。筆者もたった一人だが誰に誘われたというわけでなく個人として参加した。世界中から参加者が来ていた。第五福竜丸の久保山さんが亡くなって、原水禁の運動は大きく盛り上がっていたのである。
土門拳がヒロシマを撮っていたのは以前に書いた。土門拳のヒロシマの写真は子供たちほか、原爆被害者をきちんと見て捉えていて、多くの人々を惹きつけるものであった。土門のヒロシマの作品はニューヨークの近代美術館にもコレクションされた優れたものとなった。
筆者は土門の弟子と(自分はいわば”森の石松”だという”自称”も含めて)いう写真家数人と親しくなったが、実際の土門拳その人は車椅子で写真撮影に励む姿をNHKのテレビで親しく見ただけであった。
東松照明と知り合ったのは1985年の6月に新宿の飲み屋街(新宿ゴールデン街)で飲んだときだった。筆者がたまたま友人に誘われて行った飲み屋に東松照明が来ていたのである。そこで彼とはひょんなことで論争になり、その夜はそのまま別れたのを覚えている。
筆者と論争したことが印象に残ったのか東松照明は筆者を覚えていて何度か筆者を食事に誘ってくれて歓談することがあった。
80年代後半、日本はバブル経済で”世界一の金持ち”といわれ、世界中の羨望の的となった。
戦争犯罪者を多く生んだ侵略国がなぜ”世界一”と反感をもたれていくことになる。成功すると必ずやっかみが起こる。
筆者は”世界一”になった日本が世界中から羨望され反感をもたれていたのはロンドンでも知った。ロンドンで訪問したレーニンハウスというマルクス・エンゲルスの記念館の学芸員の女性も”世界のお金持ち”になった日本を批判したのである。
筆者は当初知らない世界だったが、原爆は人権問題からはずされようとしているのを知った。
大阪の或る人権団体が人権問題の冊子を作ることになった。その扉にそれぞれ問題ごとのテーマを象徴する写真(10点)を掲載することになった。 筆者もそれを手伝うことになる。
9点の提案は問題がなかった。
ところが原爆の写真がひっかかった。
大学院で人権問題を研究してきたという或る若い研究者は原爆の写真はだめというのである。加害者である日本人がなぜか被害者にかわるきっかけにしてしまうマジックが原爆だというのだ。 論争となった。そこで東松照明のナガサキの写真として著名な11:02で止まって壊れた懐中時計を撮った写真が提示された。それにはその若い研究者も反対がし難くなり、ようやく掲載することを納得した。
被害を受けたのが人間でなく物言わぬ時計だったからであろうか。 これは、もの云わぬ写真がものを言った典型的な例と云える。http://www.blogger.com/img/blank.gif
これは、筆者の記憶から消えることのない貴重な経験となった。
広島、長崎、原爆忘れまじ! Remember Hiroshima & Nagasaki!
(文中敬称略、失礼の段ご容赦下さい)
映像と文化通信・自由ジャーナリスト・ネット ケイ・イシカワ
(2008年08月11日)記事転載再録
2008年08月11日 06時23分26秒 | 写真・映像・アート
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